非ぃ不ぅ未ぃからはじまる

Pure Bitch in Amaの主犯格どぇーす。

晩稲の不興

 

安木は音楽志望であった。

正確に云えば、現在もそうなのであろうが今はその種の活動は全くしていない。

15の時分からそれを志すようになり、活動に精を出そうとしたが、結局思い通りの活動をできた試しは一度足りとも無かった。

その期間ごとにそれぞれ因があるが、現在彼の航路を停滞させているのは精神の不調であった。

 

彼ももう今年24になる。彼は音楽家、と云ったら大層なものに聞こえるか。バンドマンのピークは20代だと考えた。30以降はオマケの音楽人生だと考えた。

だからそれまでに、様々な斬新なアイデアを組み込んだ楽曲を制作したかった。そして、人並みでなくともよいからせめて月に一度はステージに上がりたかった。しかし、そんな野望も、それがいつまで経っても実行できない焦りも、鬱や次から次へと湧く妄想や例の発作が、徐々に掻き消していくのだ。

 

彼は私小説を好んだ。

文章を書くことも好きであった。

音楽がダメになり己を表現する方途が失われてから、書いてみようかという気になったが、止めた。

結局、彼は音楽家でありたかった。

楽家として名を馳せたいのではなく、音楽家でありたかった。かっちょいいギターの兄ちゃんでいたかった。

二足の草鞋ほど胡散臭いものはないと思った。それを、異様に嫌悪した。アレコレ手を出すやつなんて結局最後は何者にもなれやしない。

疎遠となった知人は絵やら芝居やら、何かのクリエイターやら、手を出しているが結局、何者にもならないだろう。

中学からの友人である市川は役者志望であったが、今はミナミで黒服を着ている。

料理人志望の宮野はいくつか店を変え、とうとうつい最近、営業職に就いたと聞いた。今頃、スーツ姿で汗みすぐになってあちこち回っているのだろう。

思えば、彼の口から給料の低廉に関する愚痴を聞くことはあっても、野望や展望の話は耳にしたことがなかった。会うたびに金の話をしていた。

 

 

その夜、彼にしては珍しく友人である本坊を連れ立って飲みに出ていた。と云っても、わざわざ街には出向かず、地元のチンケな居酒屋の暖簾をくぐった。

 

カウンターに腰掛け、ビールを誂えた。空きっ腹と云うこともあって、ただでさえ下戸の彼はすぐに酔っ払った。

顔面が瞬く間に紅潮し、意識が霞んだ。

日頃、病質な神経を飼っている彼にこの酩酊が人幾倍、心地よいものに思えた。いつもこの霞んだ意識で生活できればどんなに楽であろうか。しかし、それはできまい。

彼が下戸である以外に酒を避ける理由がそれを実現不可能にさせる要因であったのだ。

飲酒による嘔吐、ないし嘔吐感を恐れたのだ。巷間呼ばれるところの嘔吐恐怖だ。故に酒を食らい、病神経を宥めることも叶わないのだ。

 

しかし、今夜は飲むと決めたのだ。ペースに気を使えば吐くほどの事態にはならないだろう。

 

カウンターのテーブルには種々の焼鳥、どて焼き、ポテトフライ、キュウリの浅漬けなどの品が並んだ。

彼らはそれらを口にしながら、いつもながらの女体話を繰り広げるのだ。

 

「一度くらいは制服の女子高生をハメてみたいなァ。なぁ、そうやろう?」

 

「いや、俺はあんなモノには芋臭さしか感じへん。俺にはロリコン趣味が分からん。あの制服姿に何をそんなに鼻息を荒くすることがあんねん。」

 

「お前は年上好きやもんなぁ。この前は街ですれ違った子連れの年増に欲情してたし。あぁ、それにしても女いきたいわァ。」

 

と言いきったところで、本坊は2杯目であるゆず酎を飲みほす。と同時、同じカウンターの少し離れた席を陣取る50過ぎくらいの男女二人組の会話が安木の耳に入ってきた。

 

話題は今流行りの男性歌手であるらしかった。その歌手のことは彼も知っている。

のみならず、彼は彼の高校の同級生の兄であった。兄と云っても安木とは一歳しか違わず、彼は早生まれで、安木と同年生まれであった。

流行りと云うこともあって、彼は昨年末の紅白に初出場を果たした。いつかの夜分、安木がふとテレビを点けるとその流行歌手はタモさんの隣に座り、そのツラには笑みを浮かべていた。

安木は彼が羨ましかった。

すっかり贏ち得たであろう大金と地位が羨ましいのではない。

多くの人間に、至って健康なステージ上で自身の音楽を聴かせ、脚光を浴びているという点で、彼は厭ったらしいほどの、限りなく嫉妬に近い羨望を抱いていた。ただ、その売れっ子による一番肝心な楽曲は''実験的''や''新鮮味''という単語からとは縁の無い、凡庸なものであったのが唯一の救いであった。詞は100人中30人が書けそうなものだし、メロディはいまいちパッとしないものばかりだし、ギターはヘタクソだし、ボーカルに僅か色を感じられるくらいのものであった。

それでも彼は日々曲作りに励み、レコーディングをし、ステージに立っている。その一方で自分は心中では自分の芸に確信めいた自信を持ってはいるが、実際はロクにステージにも立たず、それどころか練習スタジオにも行かず、曲作りの方は強迫的な神経も関係しているであろう、思いに思い詰め、もう何が何だか分からないほどのスランプに陥っていた。そうなれば、その大した自信とやらも徐々に崩れていったりもするものだ。

 

 

「メロディーに昭和を感じんねん。あの子の曲には。」

 

「カラオケで歌おうとすんのやけど、全然うまく歌えへんねん!」

 

などと、矢継ぎ早に男女は言葉を交わすのだった。彼らにとってはとりとめもない世間話であろうが、そのとりとめもない世間話は安木の不興を買うには充分過ぎるほどの要素になり得た。

 

しかし、安木はただ押し黙ることしかできず、カウンターの席にうなだれることしかできないのであった。彼は未だにうなだれることしかできないのであった。病に追われ、決して振り払うことのできない人生の前では、ただ、うなだれることしかできないのであった。